お子さんからふと、「ねえパパ、川跡(かわと)って、昔は川だったの?」 と聞かれて、ドキッとしたことはありませんか?
「えっ、たぶんそうだと思うけど……いつ頃の話だろう?」
「昔って、どれくらい昔?」
なんとなく知っているつもりでも、いざ子供に説明しようとすると、正確な答えが出てこなくて言葉に詰まってしまう。
そんな経験を持つお父さんは、あなただけではありません。
結論から言えば、お子さんの直感は正解です。
私たちが暮らすこの「川跡」という場所は、かつて中国地方最大の河川・斐伊川(ひいかわ)の本流が堂々と流れていた、まさに「川の跡」そのものなのです。
この記事では、難解な古文書や専門的な論文の代わりに、現在の地図と風景を使いながら、この土地に刻まれたダイナミックな歴史を紐解いていきます。
読み終える頃には、いつもの通勤路や散歩コースにある「不思議な段差」や「曲がりくねった用水路」が、先人たちが暴れ川と闘った誇り高い痕跡に見えてくるはずです。
次の休日は、お子さんと一緒に「川の跡」を探す冒険に出かけてみませんか?
[著者情報]
この記事を書いた人:松井 史朗(まつい しろう)
地域歴史フィールドワーカー / 元社会科教員目次出雲平野の治水史と微地形を専門に研究。「歴史は教室ではなく、足元の地面にある」をモットーに、親子で歩く歴史探訪講座を主催。難解な郷土史を、現代の地図とリンクさせて分かりやすく翻訳することに情熱を注いでいる。
地名の由来:「川跡」は比喩ではなく、本当に「斐伊川の本流」だった
まず、お子さんの質問に対する「決定的な答え」を用意しましょう。
「川跡」という地名は、単なる比喩や伝説ではありません。
これは明治時代に、この土地の成り立ちを正確に表すために公式に採用された名前なのです。
明治22年の合併と「往古斐伊川ノ川跡」
時計の針を明治22年(1889年)に戻します。
この年、全国で町村制が施行され、現在の川跡地区にあたる5つの村(中野、武志、荻杼、稲岡、高岡)が合併することになりました。
新しい村の名前を決める際、当時の村長たちが頭を悩ませた末にたどり着いたのが、この5つの村すべてに共通する「ある地理的特徴」でした。
当時の記録である『村名選定理由書』には、はっきりとこう記されています。
本区域ハ概シテ往古斐伊川ノ川跡タルヲ以テ川跡村トス
(この区域は、おおむね昔の斐伊川の川跡であるから、川跡村とする)
出典: 郷土誌川跡 – 川跡村誌編纂委員会
つまり、かつて斐伊川(西流)の本流が流れていた場所こそが、現在の川跡地区の起源(Origin)であると、当時の人々も明確に認識していたのです。
この歴史的事実こそが、地名の由来そのものです。
なぜ川は消えたのか? 暴れ川「斐伊川」の西流と東流
では、あんなに大きな斐伊川が、なぜ消えてしまったのでしょうか?
そこには、自然の猛威と、それに抗った人間の壮大なドラマがありました。
かつて斐伊川は「西」へ流れていた
現在、斐伊川は東へ向かって宍道湖に注いでいますが、江戸時代の初め(寛永年間)頃までは、まったく違うルートを流れていました。
当時の斐伊川は、出雲平野を西へ西へと流れ、神西湖(当時は神門水海と呼ばれていました)を通って日本海へ注いでいました。
この「斐伊川(西流)」のルート上に位置していたのが、まさに私たちの住む川跡地区です。
当時は、たびたび洪水に見舞われる湿地帯や中州のような場所でした。
「若狭土手」が川の流れを変えた
この状況を一変させたのが、松江藩による大規模な治水工事です。
度重なる洪水被害を防ぐため、そして新しい田んぼを開発するために、人間が川の流れに介入しました。
具体的には、「若狭土手(わかさどて)」と呼ばれる巨大な堤防を築くことで、西へ向かおうとする斐伊川の流れを強引に堰き止め、東(宍道湖方面)へと固定したのです。
この若狭土手による介入の結果、かつての本流だった西側のルートには水が来なくなり、次第に干上がって陸地化していきました。
こうして生まれた新しい土地に人々が移り住み、田畑を耕したのが、現在の川跡の風景の始まりです。
【地図で見る】今も残る川の記憶。「鯰の尾」と「古土手」を探せ
「歴史の話はわかったけど、今の風景には何も残ってないじゃないか」
そう思われるかもしれません。
ですが、目を凝らせば、痕跡はあちこちに残っています。
ここからは、フィールドガイドとして、お子さんと一緒に探せる「川の記憶」を紹介しましょう。
1. 道路になった堤防「古土手(ふるどて)」
Googleマップや、実際の道路を見てみてください。
川跡地区の中には、周囲よりわずかに高くなっている道路や、家が建ち並ぶ細長い微高地がありませんか?
これらは、かつての斐伊川の自然堤防や、人間が築いた旧堤防の跡です。
かつての松江杵築往還(街道)は、水害を避けるために、こうした旧堤防(古土手)の背を利用して作られました。
現在の県道や主要な生活道路が、なぜか直線ではなく緩やかにカーブしているのは、それが昔の川の形に沿っているからです。
2. 先人の知恵「鯰の尾(なまずのお)」
もう一つ、面白い痕跡があります。それは用水路の形です。
斐伊川は、川底が周りの平地よりも高い「天井川」です。
そのため、本流から直接水を引こうとすると、水圧で堤防が壊れる危険がありました。
そこで先人たちが考案したのが、「鯰の尾(なまずのお)」と呼ばれる独特の取水システムです。
これは、堤防の内側にもう一つ小さな堤防(副堤)を長く伸ばし、二重堤防の間を水がゆっくり流れるようにする仕組みです。
この形がナマズの尻尾のように細長く見えることから名付けられました。
天井川という課題に対し、鯰の尾という解決策(Solution)を用いることで、人々は安全に水を利用できたのです。
現在も、川跡地区の一部の用水路や道路の形状には、この「鯰の尾」特有の細長いカーブが残っています。
地図上で不自然に細長く伸びる区画を見つけたら、それが「ナマズ」かもしれません。
✍️ 専門家の経験からの一言アドバイス
【結論】: お子さんと散歩するなら、一畑電車「川跡駅」の北側、北松江線の線路沿いを歩いてみてください。
なぜなら、このあたりはかつての微高地と低地の境目が分かりやすく残っているからです。「ここから急に坂道になってるね。ここが昔の川岸だったのかも!」と、高低差を体感しながら歩くと、ただの散歩が探検に変わりますよ。
駅から始まる現代史:一畑電車と「川跡」の発展
最後に、もう少し新しい時代の「川跡」を見てみましょう。
明治時代に「川跡村」として生まれ変わったこの地は、大正時代に入ると交通の要衝として発展し始めます。
その主役が、一畑電車です。
一畑電車の川跡駅は、大社線と北松江線が分岐する重要なターミナルですが、この駅が設置された場所も、水害のリスクが少ない微高地が選ばれています。
かつては一面の田園地帯でしたが、1990年代以降、島根県立大学(旧・島根県立看護短期大学)の開学や、出雲市中心部へのアクセスの良さから、急速に宅地化が進みました。
農村からベッドタウン、そして学園地区へ。
風景は変わりましたが、駅名や地名として残る「川跡」の文字は、ここがかつて川であった記憶を今に伝え続けています。
よくある質問 (FAQ)
ここでは、私がフィールドワーク中によく聞かれる質問にお答えします。
Q1. 「荻杼」って、なんて読むんですか? 由来は?
「おぎとち」と読みます。難読地名として有名ですね。
由来には諸説ありますが、川辺に生える「荻(おぎ)」と、土地を意味する「とち」が組み合わさったと言われています。やはり、かつて川や湿地帯であったことを示す植物の名前が由来になっているのが興味深いですね。
Q2. 昔は川だったということは、水害のリスクは高いのですか?
かつては氾濫原でしたが、現在は斐伊川放水路の完成など、治水対策が大幅に進んでいます。
ただし、地形的に低い場所(旧河道)であることに変わりはありません。大雨の際は水が溜まりやすい場所もあるため、出雲市が発行しているハザードマップを確認し、ご自宅周辺の標高や避難経路を把握しておくことは非常に大切です。
まとめ:いつもの散歩道が、歴史の教科書になる
「川跡」という地名。
それは、かつてここを流れていた雄大な斐伊川の記憶であり、その暴れ川と向き合い、大地を切り拓いてきた先人たちの生きた証です。
- 川跡は、文字通り「斐伊川の跡」である。
- 若狭土手が流れを変え、この地を人が住める場所にした。
- 古土手や鯰の尾といった痕跡が、今の道路や水路に残っている。
今度、お子さんと一緒に近所を歩くときは、ぜひ足元の「わずかな段差」や「曲がった道」に注目してみてください。
「ここは昔、大きな川の底だったんだよ。人間が頑張って、ここに家を建てられるようにしたんだね」
そう語りかけるあなたの言葉は、教科書のどんな年号よりも深く、お子さんの心に響くはずです。
さあ、地図を片手に、時空を超えた冒険に出かけましょう。
[参考文献リスト]
- 『郷土誌川跡』 – 川跡村誌編纂委員会
- 斐伊川の歴史 – 国土交通省