出雲市古志町の歴史をやさしく解説|風土記の伝承から古志氏まで、町の奥深さがわかるガイド

出雲市の地図を見ていると、「古志町(こしちょう)」という地名が目に入ることがありますよね。

出雲大社や神話のイメージが強い出雲の中で、古志町は少し落ち着いた印象のある地域かもしれません。

でも、この町の歴史をたどっていくと、古代の地名伝承から中世の武士たちの動きまで、実はとても奥深い物語が重なっていることが見えてきます。

特に気になるのが、「古志」という名前です。

『出雲国風土記』には、北陸の越国(こしのくに)と関わる地名由来が記されていて、昔から「なぜ出雲に古志という名前があるの?」と興味を引くポイントになってきました。

さらにこの地域は、弥生時代の大きな集落が広がった場所でもあり、奈良時代には神門郡家(かんどぐうけ)という役所の中心地になったことがわかっています。

そして中世には、古志氏という在地の武士がこの地を本拠に活動していました。

この記事では、出雲市古志町とその周辺に残る歴史を、古代・奈良時代・中世という流れでわかりやすく整理しながら、町の魅力をやさしくご紹介します。

古志町の「古志」はどこから来た名前?

古志という地名の由来を考えるとき、まず大切になるのが『出雲国風土記』です。

古代文化センターの解説によると、古志町周辺は古代には神門郡古志郷(かんどぐんこしごう)と呼ばれていました。

そして『出雲国風土記』には、イザナミ命の時代に、古志(北陸地方)の人々が池を築くためにこの地に移り住んだことが、古志という地名の由来として伝えられています。

この話だけを見ると、「北陸から人が来て、そのまま地名になったんだ」と思いたくなりますよね。

ただ、ここは少し丁寧に見ておきたいところです。

現在の研究では、風土記の伝承をそのまま「完全に証明された歴史」とは言い切れません。

島根県古代文化センターは、6〜7世紀の出雲と北陸のあいだには交流を示す資料がある一方で、風土記にあるような北陸から出雲への人の移住を直接示す資料は、現状では確認できていないと説明しています。

つまり、古志の地名由来は「風土記に伝わる話」として大切にしつつ、考古学では交流の痕跡が見えている段階と受け止めるのが、今の研究に近い見方といえるでしょう。

それでも古志と北陸のつながりを感じる理由

では、古志と北陸のつながりはまったく根拠がないのでしょうか。そういうわけでもありません。

古代文化センターの解説では、出雲市の西谷3号墓から出土した丹越系土器(たんえつけいどき)が注目されています。

これは、丹後・但馬から北陸に系譜をもつ土器で、出雲に運ばれたものだけでなく、出雲で作られた可能性のあるものも含まれていると考えられています。

さらに3世紀になると、ワイングラス形土器と呼ばれる特徴的な土器が山陰地方に広がりますが、古代文化センターは、そのモデルのひとつとして西谷3号墓出土の丹越系土器が関わった可能性を示しています。

こうしたことから、少なくとも出雲と北陸・丹後方面の人や文化が深くつながっていたことは、かなり確かなものとして見えてきます。

古志という地名には、そうした古代の交流の記憶が、長い時間をかけて残されたのかもしれませんね。

出雲と越(北陸)を結ぶ交流イメージ図

古志町は古代から重要な場所だった

古志町の歴史の魅力は、地名伝承だけではありません。

島根県の文化財紹介では、古志遺跡群は出雲市古志町から下古志町にまたがる約70haもの大規模な集落遺跡群とされています。

弥生時代中期から古墳時代初めにかけて、多くの遺構や遺物が見つかっていて、環濠とみられる大溝も確認されています。

しかも、古志遺跡群からは、中国に由来する青銅製三稜鏃のほか、朝鮮半島系の土器や北部九州の土器も出土しており、当時の古志が広域交流の拠点だったことがわかります。

つまり古志町周辺は、古代から人・物・文化が集まりやすい、出雲の中でもとても大切な場所だったのです。

奈良時代には「神門郡家」の中心地になった

さらに時代が進むと、古志は行政の中心地としての役割も担うようになります。

島根県の案内によると、出雲市古志町にある古志本郷遺跡では、平成10年の調査で8世紀前半の大型建物跡が集中して見つかりました。

見つかった建物跡には、郡庁と考えられる施設のほか、倉庫や鍛冶工房跡などがあり、さらに役人のベルト金具や硯も出土しています。

こうした調査結果から、古志本郷遺跡は奈良時代の神門郡家の中心部にあたると考えられています。

弥生時代の大きな集落が広がった場所が、奈良時代には役所の中心になる。

こうした流れを見ると、古志が一時的に栄えた土地ではなく、長く地域の中心であり続けたことが伝わってきます。

中世になると「古志氏」がこの地を本拠にした

古志町の歴史を語るうえで欠かせないのが、中世の古志氏です。

出雲市の「古志家文書」の解説によると、古志氏は鎌倉時代から戦国時代にかけて、出雲国神門郡古志郷を本拠とした国人領主でした。

市の資料では、系図によれば古志氏の祖・義信は出雲塩冶氏の祖・佐々木頼泰の弟とされ、古志氏の成立はおそらく1280年代ごろとされています。

以来、歴代の当主は京極氏や尼子氏、そして杵築大社(出雲大社)などと密接な関係を結びながら、出雲国の歴史に重要な役割を果たしました。

ここで大切なのは、古志氏が単なる地方の小領主ではなく、出雲の有力勢力や出雲大社と深く関わる存在だったという点です。

古志家文書の中には、大内義隆書状や山名氏政感状なども含まれていて、当時の政治や軍事の動きの中で古志氏が確かな位置を占めていたことがうかがえます。

永禄5年(1562)に本拠を失い、その後は備後へ

出雲市の文化財課によると、古志氏は永禄5年(1562)、毛利氏の出雲侵攻によって本拠である古志郷を失うことになります。

その後は毛利方に転じ、軍事面や政治面で活動しましたが、天正年間の末ごろに備後国へ知行替えとなり、出雲との関係は断たれたとされています。

こうして見ると、古志氏の歴史は、鎌倉から戦国にかけて約300年近く続いたことになります。

古志町周辺を歩くとき、ただの住宅地やのどかな風景に見えていた場所が、実は長いあいだ武士たちの本拠地だったと知ると、景色の見え方が少し変わってきますよね。

今の古志町に残る「中世の名残」

現在の古志町は、出雲市の中でも比較的落ち着いた住宅地の印象があります。

けれど、出雲市の観光情報を見ると、今もこの地域には中世の面影を感じられる場所があります。

たとえば、古志ふるさと史跡は、中世に市場町として栄えたころの守護神である恵比須神社や祇園社に関わる史跡として紹介されています。

また、久奈子神社の先には、古志氏の栗栖山城跡があると案内されています。

古代の役所跡や弥生の集落だけでなく、中世の城跡まで同じ地域の中に重なっているところが、古志町の面白さです。

ひとつの時代だけを見るのではなく、「古代の拠点」「奈良時代の役所」「中世の武士の本拠地」という重なりで見ると、この町の奥深さがぐっと伝わってきます。

古志町を歩くなら、どこに注目すると楽しい?

歴史に詳しくなくても、古志町を歩くときに少し意識するだけで、景色の味わい方が変わります。

1. 古志本郷遺跡周辺

奈良時代の神門郡家があったと考えられる場所です。

現在ののどかな風景の中に、かつて役人たちが行き交った行政の中心地があったと想像すると、とても興味深いですよね。

2. 古志ふるさと史跡

中世に市場町として栄えた地域の空気を感じやすいスポットです。

町の成り立ちを知るきっかけになります。

3. 久奈子神社と栗栖山城跡周辺

古志氏の歴史にふれたい方におすすめです。

高い場所から見える景色の中に、古志氏が見ていた地形や交通の要衝を想像してみるのも楽しいです。

4. さらに古代を深く知りたいなら周辺の下古志町へ

古志郷の地名伝承や宇賀池跡など、風土記に関わる話題は現在の下古志町側にも広がっています。

古志町だけでなく、古志郷全体として見てみると、より立体的に歴史がつながってきます。

まとめ|古志町は「古代・奈良・中世」が重なる歴史の町

出雲市古志町の魅力は、ひとつの時代だけでは語れないところにあります。

『出雲国風土記』には、古志の人々が池を築いたという地名伝承があり、考古学の研究からは、古代の出雲と北陸・丹後方面との交流の深さが見えてきました。

さらに、古志遺跡群は弥生時代から古墳時代初めにかけての大規模集落として知られ、奈良時代には古志本郷遺跡が神門郡家の中心部になったと考えられています。

中世になると古志氏がこの地を本拠にし、約300年近く出雲の歴史に関わり続けました。

こうして見ると、古志町はただ静かな住宅地というだけではなく、古代・奈良時代・中世という異なる時代の歴史が折り重なった町なのだとわかります。

次に古志町を歩くときは、ぜひ「ここにはどんな時代の人がいたんだろう」と想像しながら歩いてみてください。いつもの景色が、少し違って見えてくるはずです。

【その他 出雲の地域の歴史と由来】


【参考文献リスト】

  • 島根県古代文化センター「第91話 出雲と越(こし)-『出雲国風土記』の移住伝承から-」
  • 島根県「古志遺跡群」
  • 島根県「神門郡家(古志本郷遺跡)」
  • 出雲市「古志家文書」
  • 出雲市「出雲市地域が誇る観光スポット」

【その他 出雲の地域の歴史と由来】